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「ジャンボン・メゾンの移り変わり」

2024年度の始まり


 ジャンボン・メゾンは、私の両親が立ち上げた会社である。当初、何がきっかけでどんな過程でハム屋になったのかなんか、私には全く関係ないことだと思っていたので聞きもしなかった。しかし、私が二代目代表取締役になる時、様々な手続き、あるいは助成金の申請などをし始めると、沿革を書く欄が出てくるようになった。
 沿革とは、企業の歴史的な発展や変遷を記したものだ。
 そんなこと、知らん、と当時は言いたかったが、社長という立場になるとそうもいかなくなった。また、テレビや雑誌の取材でも必ず聞かれるのもこの「歴史」の話だった。私は重い腰を上げ、少しずつ母から話を聞くことにした。亡くなった父から聞いたことも覚えている。そして私の朧気だった記憶は、父との何気ない会話、母との確認作業で、しっかりと映像が脳裏に出来上がってきた。そこで、ここ(note)に書き残したいと思うようになっていった。2023年に綴った話をもっと深堀りして、2024年は書いていきたいと思う。

創業者の父と母(写真中央)

「若き日の父と母」


 父が47歳、母が43歳になる1990年11月に、ジャンボン・メゾンは創業した。私は仙台の大学で美術を学んでいた時で、入学と同時に一人暮らしを始めたから、この頃、父と母がどれだけ沢山の事を考えて、お金を工面して、工場を建てたかなんか、全く知る由も無かった。

 私の母は、もうすぐ21歳になる3月に今野家に嫁いだ。その2年後に姉が産まれ、3年後に私が産まれた。少し離れて妹も産まれた。その下にもう一人いたのだが、残念ながら産まれることはなかった。
 父は水稲の専業農家だった。お祖母ちゃんは野菜を育てていて、それをリヤカーに乗せて町に行商に行っていた。お祖父ちゃんは農家の仕事が嫌いだった(多分)。きちんとした身なりで、農協の組合長の仕事をメインでこなしていた。家では分厚い本を読み、人から聞いた話では、この辺の地図を書いたそうだ。母はそこに嫁いできて、大好きなお花を育てて、それも行商で売っていた。
 私たちは寂しい思いを家族から与えられることは無かった。それは今振り返っても幸せだったな、と思う。こんなド田舎で何もない場所で、家族という存在が全てだったし、半径10キロ圏内が私の世界の全てだった。そんなトトロが出るような場所で、私は18年間お世話になった。その17歳か、18歳の頃、初めて「手作りのソーセージ」なるものを食べた記憶がある。

工場の裏はかつての遊び場だった


「長い、長い東北の冬に、思いついたこと」


 父が農家の傍ら、農協の役員をしていた頃の話だ。今なんかと、比べ物にならないくらい岩出山には大雪が降り、冬はとても長かった。その冬の時期、農家の仕事は激減してしまうので、収入が無くなる。だから父と母はよく出稼ぎに行っていた。丁度この頃、母は町中の川口肉屋にパートタイマーで働き始めていた。手先の器用な母は、包丁さばきをすぐに習得し仕事自体も楽しく、そして勉強も好きな人だったから、どんどん知識も頭に入れていった。
 母は父に、毎日川口肉屋で教えられた知識を語り、父も興味深そうに聞いていた。なぜなら父には密やかに抱いている「夢」があったからだった。
 父は幼い頃、祖父と海賊映画を観に行ったことがあった。洞窟の中、炭火で焼いていた骨付きの肉を頬張る海賊の姿を見た時、電撃が走った。
「食いたい…。あの肉を腹いっぱい食いたい…」
父はその「映像」を忘れることが出来なかった。いつから買い始めたのか、本棚には加工肉や手作りソーセージやハムの本がぎっしり並んでいた。それは趣味でもなく、まるで異国の物語を読むような感覚だった。なぜなら自分は専業農家の跡取りで、嫁も子供もいて、これから莫大な学費がかかるというのだから、農家でなんとか踏ん張らないといけない。今まで副業で、食用ミミズを育てたり、原木椎茸を育てたり、色々なトライをしてきたが、残念なことに上手く収入に結び付くまでに至らなかった。そんな経験を嫌なくらいしてきたのに、ハムを作るなんてとんでもない話だ。夢の中の夢のような話に過ぎない。
 しかしそんな中、農協の役員の集まりで、当時「改良普及員」だった、斎藤さんという女性と出会った。改良普及員とは、直接農業者に接して、農業生産方式の合理化や農業経営の改善などを普及指導に当たる人である。その斎藤さんに、父は「手作りのソーセージを作ってみたいのだが」と相談をした。そして斎藤さんから紹介された人が田尻に住む獣医さんで、後の手作りのハム・ソーセージを会員に売る「アグリハウス加護坊」の先駆者だった方を紹介された。

創業時の父と母。夢を抱きながら独学で今の地位を築いた


「こんなウインナー食べたことがない」


 その獣医さんは、毎年冬になるとソーセージ作りを教えに、我が家にやって来るようになった。私が高校生、妹が中学生、姉は名取の農業実践大学(現在の宮城県農業大学校)の全寮制で学校に所属していた頃だ。姉が寮から友達を連れて帰ってくる雪の季節に、父はウインナーを作り始める。最初の年のスモークはドラム缶だった。つぎの年からは、コンパネを使って手作りをしたスモークハウスに進化していった。燻すためのチップは無く、その頃は原木の桜の木を炊き、燃えすぎないよう一晩中、火と向き合ってスモークをして、ウインナーを仕上げた。父は大好きなお酒をチビチビと飲みながら、その過程を楽しんでいた。
 出来上がったウインナーは、完全なる無添加。ワイルドな燻製が特徴のある味にだった。それを家族、知り合い、親せきなどに配って歩いたところ、みんながその美味しさに驚いたのだった。
「こんなウインナー食べたことない」
 ウインナーと言えば真っ赤な色の「たこさん」の時代で、この本格的なウインナーは食べた人の度肝を抜いた。父は恐らく、この頃に覚悟を決めたと思う。
 母は、こんなに美味しいなら「地元のお祭りで売ってみよう」と言い出した。しかし、加工肉は資格がないと作ったところで、売ってはいけない。しかも売る場合は表示義務もあった。恐らくこの逆境が、父のガソリンになってしまったのだと思う。
「なぜ自分は今まで、これがやりたいんだって認めなかったのだろうか。なぜやりたくないことをお金が欲しいだけの理由で着手してしまったのか。ほらみろ、全部失敗したじゃないか。俺は完全に腑に落ちた。俺のやりたいことは、手作りのハムとソーセージを作ることだ」

どこにもない、ここだけの「岩出山家庭ハム」

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